"4000円を頼んだ私に、死んだはずの父から4000万円" 第19話
「澄のとは、まるで違うが……体に染みるよ」
私は自分のぷら蕎麦を箸でほぐしながら、静かに横顔を見つめた。
「病状は、どうなんですか」
「抗がん剤の量を減らして、自宅療養に切り替えたよ。杉浦にも、会社の仕事からは完全にを引かせてもらった。……残されたは、そうくないそうだ」
正隆は箸を置き、汁の浮いた丼を見つめながら、静かに語り始めた。
「私はね、ずっと勘違いをしていたんだよ」
老の声はく、の換気扇の音に混じっていった。
「を持ち、位を築き、に指図できるようになることこそが、の成功だとっていた。だから、澄が私の元をったも、『のない活に耐えられなくなって、いつか戻ってくるに違いない』と、のどこかでを括っていたんだ」
正隆は自嘲するように目を伏せた。
「だが、違った。澄は自分の腕本で、おを派に育てげた。そしておもまた、自分の活に誇りを持ち、私の差ししたを平然と突き返した」
老は顔をげ、私の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、かつての傲な資本のは微もなかった。
「おたち母娘の暮らしを見て、私はまれて初めて、自分がどれほど貧しいだったかをいらされたよ。私は、何も積みげてこなかった。残ったのは、使い切れない数字と、誰もをいてくれない巨な虚名だけだった」
「……」
「奈。おが私の娘でいてくれたことを……勝ながら、誇りにうよ」
正隆の目から、筋の涙がこぼれ、シワだらけの頬を伝っていった。老はそれを拭おうともせず、ただ静かに微笑んだ。
「ありがとう。私の目を、覚まさせてくれて」
私は何も言えず、い蕎麦のつゆをすすった。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような覚。許したわけじゃない。母が背負わされたの苦労も、私から父親を奪われた空も、消えてなくなるわけじゃない。
けれど、いま目のにいるこのは、豪の怪物でも、憎悪の対象でもなかった。ただ、自分のの引き際をにして、必でとしての尊厳を取り戻そうとしている、器用で、孤独なの老いた男だった。
をると、夕暮れのたいが商を吹き抜けていた。駅の改札ので、正隆はを止め、杖を両で握り直した。
「送っていくよ。ハイヤーを呼んであるんだ」
「いいえ。で帰ります」
私が断ると、正隆は「そうだな」とさく笑った。
そして、改札へ向かおうとする私の背に向けて、おずおずと、消え入りそうな声で問いかけてきた。
「奈」
を止めて振り返る。
初の暮の、老は子供のようにそうな瞳で、私を見つめていた。
「……また、緒に蕎麦をってくれるかい?」
それは、父親としての命令でも、施しの代償でもない。
対等なとして、相の都を伺う、純粋な願いだった。
私はしだけ息をえ、ポケットのでたくなった指先を丸めた。そして、静かに答えた。
「……事に、いつ空いているか聞いてくだされば」
正隆の表が、パッとるくなった。まるで、奇跡でも目撃したかのように目を見き、そしてく、何度もをげた。
「ああ。必ず、そうするよ。……ありがとう、奈」
老は杖をつきながら、ゆっくりと、待たせてあったタクシーの方へと歩いていった。そのさくなったろ姿を、私は見送った。
「お父さん」と呼ぶは、きっと来ないかもしれない。私にとっての族は、あの古びたアパートで待つ母と、油まみれで笑う夫だけだ。けれど、この老がこの世をるそのまで、たまに杯の蕎麦を啜り、のない世話を交わすことくらいなら、選んでもいい。
誰かに決められた運命ではなく。私が、私自の志で。
アパートの階段をがると、がの玄関のガラス越しに、温かなのかりが漏れていた。
ドアをけると、汁の効いた噌汁の匂いと、魚を焼くばしい煙が迎えてくれた。
「ただいま」
「おかえり、奈」
台所でフライパンを洗っていた悠が、濡れたをタオルで拭きながら顔をした。奥の部では、母がこたつに入って、聞の旅欄をに眺めている。
「お母さん、何見てるの?」
「ん? 京都のガイドブックだよ。の桜もいいけど、やっぱり葉の期の特別拝観ってのが綺麗らしいじゃないか。腰を鍛えとかないと、寺の階段を登れないからねぇ」
母は悪戯っぽく笑いながら、スクワットの真似事をして見せた。その姿に、私と悠は顔を見わせて吹きした。
卓には、スーパーで買ってきた半額の鮭と、母が朝から仕込んでくれたおから煮。座には、私たちの将来を守るためのささやかな蓄えと、夫がかけてに入れた堅実な常だけが、静かに息づいている。
私は台所の窓をけ、たい夜を胸いっぱいに吸い込んだ。くで、のるい鳴りが聞こえる。
あの、4000円を借りようとして、4000万円が振り込まれた。けれど本当に変わったのは、私の預残だけじゃなかった。43、らずにいた自分のを、ようやく自分で選べるようになったのだ。