"正月の料亭で仲居に渡された「逃げてください」の紙切れ" 第10話
料亭の玄関をると、凍てつくようなの夜が頬を打った。さっきまでの先を巡っていたりのが、急速に引いていく。代わりに、鉛のようにい疲労が全にのしかかってきた。
コートのポケットので、さく丸められた箸袋の片に触れた。『逃げてください』。あの仲居さんの文字。
(私は……逃げ切れたのだろうか)
違う。あのから逃げさなかったからこそ、あのたちの醜い本性をすべて暴くことができたのだ。でも、これで終わりではない。夫が漏らした、あの異常な言葉。『母さんのを使われたら、全部終わる』。その気な響きが、の奥にこびりついてれなかった。
その夜、自宅のマンションに戻ったのはを過ぎていた。夫は義母をタクシーで実まで送り届けていたため、部には私だった。
リビングのかりをつけ、え切った部の真んにつ。の娘、音は、昨夜から友達のに泊まりがけで初詣にかけており、の夕方まで帰らない予定だった。娘がこの醜悪なにいなかったことだけが、唯の救いだった。
コートも脱がず、ソファにく沈み込む。静まり返ったリビングで、計の秒針の音だけが響いていた。
カチャリ、と玄関の鍵がいたのは、付が変わる直だった。
い音が廊を通り、リビングのドアがく。
入ってきた夫は、ネクタイをし、すっかり疲れ果てた顔をしていた。私の姿を認めると、わざとらしいきな溜息をついて見せた。
「……まだ起きてたのか」
私は答えず、ただたい線で夫を見据えた。
夫はキッチンへ向かい、蔵庫から麦茶を取りして気にみ干した。喉を鳴らし、グラスを乱暴にシンクへ置く。そして、私と線をわせないまま、リビングのテーブルの端にをついた。
「おさ、いくら何でもやりすぎだろ」
番、夫のからたのは、反省でも謝罪でもなかった。どこまでも被害者を装った、逆みの非難だった。
「親戚全員ので、母さんに恥をかかせて……本の叔父さんにまでを尽かされたんだぞ? の恥だ。どう責任取ってくれるんだよ」
「責任?」
私はゆっくりと顔をげた。声が震えないよう、腹の底に力を込める。
「責任を取るべきなのは、私に無断で仕事を辞めさせようとしたあなたたちでしょう。親戚に嘘を吹き込んで私を罠に嵌めようとしたのは、お義母さんと美智子さんとあなたよ」
「だから! それは言い方が悪かったって、さっきから言ってるだろ!」
夫は苛たしげに髪をかきむしった。
「母さんはが痛くて、本当に困ってるんだ。通院だってじゃ危ないし、買いしだってい荷物は持てない。族なんだから、しは融通を利かせてやるのが優しさだろ? それをあんな、裁判の証尋問みたいに問い詰めて……お、血も涙もないのかよ」
「族の優しさ?」
乾いた笑いが、唇の端から零れ落ちた。
「私のキャリアを奪うことが、あなたの言う優しさなの? 事務の仕事なんて誰でも代わりがいるから、パートになって空いたで母親の介護をしろと? それが、連れ添った妻に対する言葉なの?」
夫は気まずそうに目をそらし、声で呟いた。
「……実際、そうじゃないか。おの料なんて、パートになってもにせいぜい万減るくらいだろ? 俺のボーナスで補填できる額じゃないか」
その瞬、私ので、何かが完全に音をてて千切れた。
万減るくらい。俺の稼ぎで補填できる。この男にとって、私が、医療法の事務として積みげてきた実績も、同僚からの信頼も、社会と繋がっている尊厳も、すべて「にたった万円の価値」でしかなかったのだ。
自分の母親の介護という厄介事を妻に押し付け、妻から万円分のを買い叩き、自分は傷つ負わずに親孝な息子の顔をする。それが、夫のので弾きされた「族の助けい」の正体だった。
「修さん」
私はちがった。まっすぐに夫の瞳を射抜く。
「料亭で言ったわよね。『施設なんかにを使われたら、全部終わる』って。あれ、どういう?」
夫の肩が、びくりとねがった。
「だ、だから……あれは……」
「お義母さんは、料老ホームに入るだけの蓄えがあるはずよ。