"「寝かせた金」と呼ばれた一千万円" 第9話
あまりの浅ましさに、乾いた笑いすらなかった。
「織さん……」
真理さんが、消え入りそうな声で囁いた。
その顔は、幽霊のように蒼だった。
「それだけじゃ、ないんです……」
「何?」
真理さんは周囲を気にしながら、テーブルに顔をづけた。
その瞳の奥には、底れぬ恐怖が渦巻いていた。
「昨、亮介が話で健さんと話しているのを聞いてしまったんです……。『会社の監査が本格に入るに、く形を作らなきゃマズい』って……」
私の背筋を、本物の悪寒が駆け抜けた。
「監査……?」
「はい……健さん、今の会社で営業課をしてますよね。でも、営業接待費の架空請求と、取引先からのキックバックの着が……社内で問題になり始めているらしいんです。来の定期異で、懲戒か遷になるかもしれないって……」
言葉を失った。
夫が会社を辞めたがっていた本当の理由。
弟のにしがみつこうとしていた、真の。
それはでもセカンドキャリアでもない。
横領という自らの犯罪から逃げし、妻ので舟を買い取って逃するための、醜悪極まりない隠蔽作だったのだ。
「織さん……健さんは、もう逃げがないんです。だから、曜の決起集会で、親戚全員のであなたを既成事実で縛りげて、何が何でも千万円を奪い取る気です……!」
真理さんの震えるが、私の首を掴んだ。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
たい空気が、肺の隅々まで満ちていく。
のは、恐ろしいほど静まり返っていた。
横領の隠蔽。
万の役員報酬。
偽造された署名。
そして、親族を総員した公リンチの罠。
すべてのピースが、完璧に揃った。
「真理さん」
私は掴まれたをそっと握り返し、穏やかに微笑んだ。
「この、私が預かっていいかしら?」
真理さんは息を呑み、力く頷いた。
「はい……お願いします。私、もうあのたちについていけません」
「ありがとう。あなたには、曜にやってもらいたいことがあるわ」
私はバッグからスマートフォンを取りし、画面を伏せた。
夫よ。
義母よ。
そして、愚かな弟よ。
曜の料亭。
親族同が集う、れやかな決起集会。
あなたたちが用したその台は、私を追い詰めるための檻ではない。
あなたたちの腐りきった膿を、のもとに晒し、骨の髄まで叩き潰すための、公処刑だ。
私はえ切った指先で、元のを丁寧に折り畳み、胸のポケットへとしまい込んだ。
真理さんと別れた、私は自宅へは直しなかった。
駅の文具にち寄り、の黒いレザー調ファイルと、茶封筒を枚購入した。
次にコンビニの複へ向かい、元にあるすべての類を部ずつ、歪みひとつなく鮮にコピーした。
から発された『正利用申兼異議申受領』の控え。
私が夫へ突きつけた『資拠同通告』の確定付入り原本。
公庫へ提した『名義冒用に関する警告申』の受領印が押された控え。
そして、真理さんから託された、あの屑。
『役員就任内諾 兼 経営参画に関する』。
額万円の優先支。
資調達の責任者、健。
カシャ、カシャと、無質な械音が狭い内に響く。
排トレイになっていく面を見つめながら、私は自分の脈拍が驚くほどっていることに気づいていた。
りで血を滾らせる段階は、とうの昔に過ぎっていた。
あるのは、科医が腫瘍を切除する直のような、恐ろしいほどの静寂だけだった。
帰宅すると、リビングは異様な気に包まれていた。
夫の健が姿見のにち、普段の通勤ではにつけない番いスリーピースのスーツを着て、ネクタイの結び目を何度も直していた。
テーブルのには、級ヘアワックスとの瓶が転がっている。
「遅かったじゃないか、織。どこってたんだよ」
鏡越しに私を瞥した夫の元には、隠しきれない優越が貼り付いていた。
昨晩のあの通告など、私の「のヒステリー」として完全に脳内処理したらしい。
「し、買い物よ」
「ふん。まあいいけどさ。
の準備はできてるんだろうな? 母さん、親戚に声かけて、最の席を用してくれたんだからな。叔父さんたちもみんな来る。